森火土金水

日々思うこと、さまざまな占術について綴っています。 mori ka do gon sui

ひとりが相手

連休で帰省中に、母と妹の手相を観る。
母の手には、ちゃんと、わたしが生まれたときの線、妹が生まれたときの線が刻まれている。
ひとり目だったせいか、わたしの線のほうがくっきり、はっきりしている。
大変な出来事があったときには、傷ついた線が入っている・・・しかし、両手に男並みの起業線がくっきり。
父が亡きあとも、写真館をきりもりしてきた人だからなあ。
晩年期ゾーンに、しっかりした線が出ているから、長生きするにちがいない、母。
妹の手には、とてもはっきりした長い開運線がぴゅーんと何本か、昇っている。
一本の線は、年齢を問うと、あ、結婚したときだー、という答え。
もう一本の線の年齢を問うと、うーん、あ、姑が亡くなった年だー、という答え。
結婚も、姑の死も、発展的な出来事だったと解釈していいのか・・・。
手相観るの楽しー、しかし、見た後、けっこう疲れる。
一日に何十人も観ている人は、この消耗の度合いを軽くする術を身に着けていないと無理ではないだろうか。
今まで、プライベートでさまざまなことをやってきたけれど、手相観が楽しいのは、相手がいるからだな。
じぶんになにかを反映させようとしてやることは、相手がじぶんになる。(勉強とかスポーツとか)
だれかの創作物(本とか映画とか美術とか)を媒体にして、じぶんになにかを反映させようとすることも、結局相手はじぶんになる。
手相観は、じぶんだけではなくて、だれかがいる。
効率を追求する場合は、「一度に大勢のだれか」が相手じゃないと利益はないということになるんだろう。
「ひとりのだれか」を相手にすることは非効率ということだろうか。
でも「ひとりのだれか」のためにすることは、けっこう楽しい。