森火土金水

手相と九星気学風水について綴っています。 mori ka do gon sui

じぶんの答え合わせ

算命学の授業を受けていると、じぶん自身の答え合わせをしている感覚におちるときがある。
前回の授業で判ったのは、私は「受け身で伝達する人」だということ。
授業では「先んじて自分から意見を出さず、他者の意見を聞いてからじぶんの意見を出すといい」と教わる。
でも、私はじぶん自身のことだから、顧みて考えて、「受け身の伝達」の表れかたは、じぶんにはこんなふうだ、と気づく。
材料が必要なのだ。
じぶんの中から湧き上がるものを源泉として伝達できる人もいるけれど、どうやら私はそれではない。
お題、ネタ、材料。
じぶん以外の何かがあって、それについてじぶんの言葉で伝達するのがとても好き。
占いは、必ず材料(鑑定の対象)が必要だから、じぶんに合っていると思う…。

縁のバトン

昨日は「心と体が喜ぶ癒しフェスティバル」で手相観。
この日、この時間、私は手相観をしていて、そのときに訪れるお客様がいる。
それが縁なのだ、と感じた一日だった。
お客様の中に、これは早く動いたほうがいいと思い、それは手相観の時間内で伝えられることではなく、きちんと鑑定してもらうには、私の先生たちを紹介しようと思い、ウェブの検索ワードを渡す。
あの先生も、この先生も、ちゃんと鑑定してくれる。大丈夫。そんな信頼があった。
この縁を送りだそう。
教えてもらったわけではないけれど、占術の世界で、こういうことができるのだ。
縁のバトンを渡すようなことが。
縁をつなぐことは、ビジネスの世界でも起きることだけれど、占術の世界では、もっと切実で個人的な思いをつないでいく。
私が新参者なだけで、それってあたりまえのことだよ、と占術の世界のベテランからは笑われるかも。
あたりまえなことだから、教えるという意識が起こらないのか。
それとも、こういうことができる!と、じぶんで発見したときの、喜びをとっておくために、教えないのか。
後者のほうが、いいな。

今年最後の手相観へ

12月1日は、浅草で手相観の予定。
今年最後の手相観になる。
とても短い紹介文を添えて、イベント当日も、お客様が訪れるまで、ノートを読みながらおとなしく座って待っている。
お客様が占者を選ぶ理由は、こちらにもお客様自身にも読めなかったりするから、お客様と私をリンクさせるのは、その日、その場にある縁なのだ。
予約なしで行う手相観は、いっときいっときが全力という感じ。
他に算命学も、粛々と勉強中。
こちらは手相とちがって、対面の前に分析がたっぷり必要な占術なので、鑑定を開始するときは、どんなかたちになるのかな。
学んだことをもとに、じぶんのことを振り返ると、そのときの只中に身を置いていたときは、何も気がつかなかったし、気がつくことも難しいなあと思う。
通り過ぎないと分からないし、通り過ぎたときは、もう未来じゃない。
でも、こんな未来の気配がある、と、未来に向かって、わくわくしているのは、心にも体にもいいと感じる。
気学のほうの師匠の師匠の弟子がまとめた本を書店で見つけて、買って読んでみたら、古い時代に執筆されたため、異なった世俗的価値観が残っているのを感じつつも、はっとすることが書いてあった。
良い方位がもたらす効果は、その人の心の変化である。
心が良く変るから、未来が良く変ると。
手相観のお客様に具体的な方策を聞かれたときは、気学を紹介するのだけど「タナボタが来るわけじゃないんですよ、でもその人に必要な変化が来ます」と言い添えていた。
じぶんの実感として、そう伝えていたのだけれど、心と意識が変って、行動が変る、ってことか。
心を変えるって、地味な効果に思えるかもしれない。
でも人って、考え方を変化させようとどんなに言葉をつくして説明しても、簡単に変化するものではない。
それが自発的に変化するとしたら、たいしたものだよ。

伝える、尊ぶ

働く場で、周囲にいるのが、年上の人より年下の人たちが多くなった今。
年下の人たちの態度がきつかったりすると、じぶんもこうだったのかなあ、と思うときがあって、生意気なじぶんを、平気で人を傷つけるじぶんを、年上の人たちは許してくれていたんだなあと、もう周囲にはいない人たちに感謝したりする。
何を言っているのか分からない、と言われるのは、私の伝え方が悪いせいなのか?
伝えることに必要なのは、礼。伝える相手を尊敬すること。
と、先月、算命学の授業で教わったことが新鮮だったのを思い出し、この人たちには伝わるだろう、と思う相手にメールする際、まず相手への深い信頼を示した文を始めに入れてから、文章を作る。
信頼は尊敬にも、等しいもののはず。
それぞれ違ったもの、色々なものを見て来た人たちが集まって、仕事をしている。
それぞれの人たちが、違ったものが見えている。
わからないと一刀するのではなくて、じぶんに見えないものが、その人には見えている。
それは尊重すべきこと。

 

 

 

正しい買い物

書店でふと目についた本があった。
それは「古代餅」の本。
古代餅を食べたくなって、まずは古代餅をネットで注文。
そして、古代餅を食べるために、いろいろと買い物をする。
我が家には置いていなかったオーブントースター。(小さなサイズのものを探して、タイガーの「ぶちはこ」をネット注文。)
ピーナッツバター、ブルーベリージャム、カッテージチーズ、バジルペースト、餅のこびりつかないクッキングホイル、をお店で買って、自宅に持ち運ぶ。
まだピーナッツバターを塗った古代餅しか試していないけれど、食べやすくて、夜に古代餅を食べた翌朝、いつもほど空腹感が起こっていないことに気づく。
高校生のときに玄米と出逢ったものの、続けるのは本当に難しくて、三十代のときは何とかして美味しく玄米を食べたいと、じぶんで玄米を発芽させて圧力鍋で炊いたりして、その頃って玄米と格闘していたに等しいんじゃないかという時代が過ぎ、今では私の食生活で玄米に関係したものは、朝の玄米コーヒーしかないというありさま。はは。
ただ、玄米を食べたときの空腹感の起こらなさは本当に不思議で(玄米は糖分の吸収スピードが遅いせいなんだそうだ)その不思議ぶりは、もう一度体験したかった。
無理に玄米を食べなくても、玄米を餅にした古代餅でも、同じような体験ができる予感がする。
予想以上にでかいサイズだったピーナッツバターやブルーベリージャムの瓶の重さに耐えながら家に持ち帰った日の翌日、美容院で、すごく左肩がはってますよ?!と驚かれ、ああ、左腕にバッグを提げて運んだせいか、と思い当たるわたし。
買い物ってこういうことなんだなあ、と気づく。
古代餅を食べたい!というシンプルな欲望と目的を達成するために、別のアイテムが集まってきた。
最初に目の前にアイテムがあって、それを買うか買うまいか、と悩むことが買い物じゃないんだよなあ。
正しい買い物に満足しつつ、まさか肩こりまで派生するとは、と苦笑いしつつ、古代餅を食む。