森火土金水

手相と九星気学風水について綴っています。 mori ka do gon sui

観ること、進むこと

今月初めに、手相観として参加した「心と体が喜ぶ癒しフェスティバル」。
浅草開催のときは、順調にお客様が増えてきて、嬉しい。
手のひらの線が多い人より、少ない人のほうが、鑑定は難しいと習った。
たしかに、線は材料で、話の種なので、線が多い人のほうが、生まれる言葉も多い。
でも、一見、線が少なそうに見える人でも、ルーペをどんどん使うと、細かな手のひらの上の線がどんどん見えてくる。線はある。必ず。
他に勉強したいこともあって、体力も時間も足りなくなってきているので、横浜参加は当分お休みして、浅草だけに参加する予定だ。次回は2月下旬。
自分の手相観スタイルは、まだ進行形。
観ることが進むこと。

カレンダーは来年の種

11月は、カレンダーが集まってくる。
じぶんで買い求めたわけではなく、サービスでプレゼントです、って感じで、4点のカレンダーをもらう。
11月は、十二支でいうと「亥」の月だ。
気学を教えてもらったときに、しつこいくらいに十二支が説明されるのが、不思議だったけれど、算命学を学んでいても、しつこいくらいに十二支の説明がされるので、これだけしつこいってことは、骨か血液なみに、重要なことなんだろう、と思うことにしていた。
すると、ときどきふっと、日常の中に、十二支の説明が立ち上がってくることがある。
10月の「戌」の月で、いらないものを切り払ったあとに残されたのが、次の11月の「亥」。
核となるもの、かたい殻で覆われた種のようなもの。
種まきは11月に行う。12月、1月と冬になると、地面が凍って種まきができない。
なおかつ、種には寒い冬を越させないと、芽が出ない、花が咲かないのだそうだ。
「寒い冬」は、苦難や苦労ともとれるもの。冬をスキップしたら花は咲かない。
集まってきたカレンダーは、来年のことを考えはじめるスイッチみたいな、いわば、来年の種である。
来年の種まきは、11月から始まる。
しかも来年はちょうど「亥」の年だし。
いらないものが切り払われた戌の年(2018年)に、ずっと続けていたことをやめた人、捨てた人は運勢が強い。
戌の月にどどどっと、やめる人・捨てる人が駆け込みのように増えた気がする。知り合いにもそういう人が出た。
今年中にそういう状況になったってことは運が強いよ!とほめたたえたら、がぜん元気を取り戻していた。
カレンダーをもらうってことは、種をたくされたような気もして。
嬉しさと焦りと、ときどき落ち込みながら、冬を迎えようとするわたし。

つまりイメージングなのだ

日曜日は「心と体が喜ぶ癒しフェスティバル」で、手相観をした1日。
参加回数を重ねていくうちに、お客様からの感想の言葉に、似たものがあることに気がついて、
それを紹介文に少しとりいれたりする。
「ていねいに見てくれますね」「細かく見てくれますね」というワードをよくいただく。
それが私の手相観のポイント、いいところなのかも。
いいところは、じぶんではなくて他人のほうが見つけてくれるものなのかも。
それと、今の状況を打開したいけれど、どうすればいいかわからない、じぶんの望みもわからない、でも何もしないままでいたくない、というお客様に、毎回ひとりは必ず出会うことにも気がついた。
そして、そういうお客様には、気学を紹介しておくのがいいと思った。
方位学の類を、忌み嫌う人もいるけれど、方位学は結局「動く」ことを要求されるので、何をすればいいのかわからないけれど、何もしないままでいたくない、という人にはぴったりなのだ。
私がそうだったから。じっとしたまま悩んでいるより、じたばたじたばたしたほうが、気持ちが前向きになる。
キャリアコンサルタントばりに、カウンセリングができる占者もいると思う。
でも、一方で、算命学を学んでいると、ひとつの方法が、誰しもにふさわしいとは限らない、と感じてきている。
そういうときに、気学だと「その人の自覚や欲望とは関係なく、その人に必要な変化」がやってくると思うのだ。
今回の、お隣のブースの方は、チャネラーの方。
「お隣がチャネラー」って、今までの自分には訪れないシチュエーションに出会うのは、感動的で、面白い。
有名な方のようで、「〇〇さんを目当てに来ました!」という常連客が次々と訪れていて、その方に語られる物語にわくわくしているようす。
さまざまな占術は、その人へのさまざまなアプローチ、その人の、さまざまなイメージング。
特殊な才能によるものとはいえない私の手相観は、努力と観察力と伝達力がエネルギー。
でも、その人の物語を描きだしていくという点は、同じなのかも。

心のセット

企業が社員に行う研修について、深く考えたことはあまりなかった。
それって、マインドセットだったんだなあ、と最近思う。
企業が望む、心のかたちを作り上げることだったんだと。
あるとき、会社で、これって変だなあ、と思って、ネットで同様の疑問の投げかけを検索して、他者の意見を伺ってみると、「あなたのほうがヘン」という多数の人に囲まれている図、ばかり出てきた。
その図に、「ヘンという多数の人たち」は、マインドセットが完了された人たちだと感じた。
人から決められた心のかたちに合わせるのは、とても難しいし、抵抗感がある。
だから、初めてのこと、初めての場所で、じぶんで心のかたちをつくりはじめる前に、他者はマインドセットにとりかからなければならない。
新人のうちに、何も知らないこどものうちに。
心が納得できないときは、どうしよう?と考える。
心に合わせて、目的をアレンジしていくしかないか…と思う。
こういうアレンジをしたら、自分の心に無理はさせない、嘘はつかないというかたちに。
そのアレンジは秘密にしておく。
マインドセットしていないことがバレてしまうから。
生きていくうえできっと、心をセットされる状況に何度も出会うと思う。
そのとき、自分のこころが、何かちがう、と思ったときは、無理にセットしなくていい。
セットじゃなくてアレンジをしよう。

オレンジ色の診察券

半年ぶりに、歯科検診に行く。
11年間も通っている医院だ。
旧くて小さなビルの中、豪華という形容詞はぜったいに出てこない内装で、
歯を診るのが大好き!って感じの、たしかな腕前の、たぶんもう70歳代に入ったかなあ、と思われる先生に、診てもらう。
ちなみに、ここの歯科衛生士の女性も、豪華な医院に勤めるかかどうかは頭になく、歯が大好き!って感じの方で、好きである。
11年も通っているのに、いまさらに気がついたけれど、さー、行こう、と取り出した診察券は、オレンジ色の厚紙製だったんで、驚いた。
なぜ驚いたかというと、オレンジ色って、九星気学の上で、歯を担当する七赤金星の色なのだ。
ためしに診察券を作るサイトを参照してみると、歯医者用の診察券モデルで多いのは、白地に水色、青の配色。
いや、だめなんだよ、歯科だったら水色も青も。
わたしが通う歯科医院の先生は、九星気学のことなんてまるで知らないまま、オレンジ色の診察券を選んだと思う。
それは無意識というか、センスというか、七赤金星に、歯に呼ばれている歯科医ということかなあ、と、ほくそ笑むヘンなわたし。
いまさらながら気がついたこと、もうひとつ。
「ゆうちょ」のシンボルカラーが緑だということ。
「ゆうちょグリーン」という単語を目にし、そういえばゆうちょの通帳って緑だ、と思い出した。
そう、緑なんだよ。郵便事業だったら、緑を選ばないとぜったいにおかしい。
通信と手紙を担当する四緑木星の色が緑だから。
そのことを、ゆうちょの方たちは、きっと知らずに選んでいると思うけれど。
オレンジ色の歯科診察券と、緑のゆうちょに、感覚のたしかさを感じて、世界はちゃんと生きて動いている、と安心するヘンなわたし。

手相観、進行中。

先週末は、浅草の「心と体が喜ぶ癒しフェスティバル」で、手相観として参加。
直に人と向かい合うとき、自分の心にも体にも、ゆらめきやムーブが起こっている、と感じる。
人と人のあいだでしか起こらないもの。
電話の会話でもなく、メールでもなく、スカイプでもなく。
直に人間どうしで向かい合うことは、そのときにしか動かない脳のぶぶんがあるような、心のぶぶんがあるような、他では代用できない何かがあるような気がする。
今回は知り合いふたりも雨の中、足を運んできてくれて、うれしさいっぱい。
前回の横浜の客入りが少なかったので、今回の浅草もあまり期待しないようにして参加したら、予想よりもずっと多くの手相を見ることができた。
ふだんはどこで手相観をしているんですか?とか名刺はつくらないんですか?と聞いてくれたお客さんも現れて、なにかが進んでいっている感じがする。
先生から教わった、「じぶんの中から自然にあふれてくることしか言わないように」することを守っていくというのは、じぶんの感覚を育て、直観を育てるようなもので、それは使えば使うほど育っていくはずで、手相を観ていくことでしか、磨かれないんだろう。
今回のお隣の出展者さんは、パーソナルなアロマブレンドオイルをつくる方で、初参加で価格が500円だったこともあって、一日中お客さんが殺到していた。
わたしは最初の二回は新参者枠で出展を申し込んで、500円で手相観をしたけれど(やはりお客さんが殺到してくれる)、今は1000円だ。
ただただ数多く手相を見たいというのなら、1000円にしないほうがいいかもしれないけれど、いろいろ考えたすえ。
10分1000円という価格は、手相観の価格としては、最安値に近いこと。
同じフェスティバルの他の手相観の方が、だいたい10分1000円であること。これをはるかに下回る価格にすると、その方々のお客を減らすことになるかもしれないこと。
自分の勤務先で、お客を増加させる手段として、売値を下げたり、割引したりを繰り返した結果、結局は、自分たちの首を絞める結果につながっていることを、目にしてきていること。
…などなどの理由を考えた結果、1000円より下げてはならない、1000円で出展していこうと決めた。
「心と体が喜ぶフェスティバル」は開催7周年目で、最初は10名程度から始まったのが、その日は189ブースの出展者。なんという発展ぶり。発展というより、育ちぶりと言ったほうがいいか。

 

目的と手段

ときにひと月に1回しか行かない状態があっても、
ピラティスのレッスンに10年以上通いつづけている。
つづいている理由はさまざまあれど、そのひとつは、
「身体のために行う」というまっすぐな目的を持っているものだから、
ということに気がつく。
身体にいい、健康にいい、と宣伝されているものは、
ほんとうは、それをすること自体が目的のはずだけど、
ほかにも目的をつくったほうが、より多くの人々をよせつけられると思うから…だろう。
歌い方を習うのは、歌いたいから、それだけが目的のはずが、
歌うと喉が鍛えられて、こんな病気が防げて・・・なんて、ほかにも目的をつくる。
その目的は、健康だけではなくて、頭がよくなる、とか、モテる、とか、
お金持ちになる、とかまで、風呂敷を広げたりして。
ピラティスは、その目的自体が身体のため、健康のためだから、
「発表会」なるものはない。
でも、「健康になること」も、目的じゃないはずなのだ。
健康も、目的ではなく手段のはずなのだ。
なんのために健康になりたいのだろう?
それでいくと、「頭がよくなること」も「モテること」も「お金持ちになること」も
ぜんぶ、目的ではなくて、手段のはずなのだ。
目的を持たない手段は、手段から手段へ、ずうっとループしつづける。
じぶんのこころに一番近いところに、目的は来ているのに、遠回りをする。
食べたいから!歌いたいから!踊りたいから!描きたいから!書きたいから!
それ自体が、目的。
でも、それをすると、健康/頭/モテ/お金がよくなるの?と議論が始まると、
ループが始まる。
そのループは、商売になったりもする。生きることにもなったりする。