森火土金水

手相と九星気学風水について綴っています。 mori ka do gon sui

令和最初のお客さま

こどもの日は、浅草の心と体が喜ぶ癒しフェスティバルに手相観で参加。
令和最初のお客さまはどんな人かなあ、とわくわく。
これ手相観にちょうどいい!と買った、パソコン仕事用のホルダークッションも、使い初めとなるので、細長いクッションをテーブルに置き、クッションと一緒に客まち。
令和最初のお客さまは…11歳の男の子だった。
なんだかとっても嬉しかった。
こどもの日に、かわゆい男の子が舞い降りたっ。
他にも、赤ちゃんを前に抱いたおとうさん、というお客さまも来てくださって、赤ちゃんをあいだに挟みつつ、手相観。
赤ちゃんのおてても見ていいですか?と頼み、おとうさんは喜んで見せてくれようとするのだけど、赤ちゃんは泣き叫んで抵抗。
すると、どうしたの?と、泣き声が聞こえたのか、どこからともなく赤ちゃんのおかあさんが登場。さすがおかあさん。
泣き叫んでいても、両親とも、「赤ちゃんの手相を見てほしい側」だったので、協力してもらいながら両手を見る。
赤ちゃんだけど、三大線がきちっと存在していて、始点の位置にも特徴が現れていて、びっくり。
その後、手相観から解放された赤ちゃんが、じぶんの手のひらを見つめながら、さっきわたしのおててに何したの~って感じで、じーっと私を見ているので、ちゃんと手に注目されていたってことが、わかっているんだなあ、と感動。
今回のお隣さんは、山伏見習いの占術師。
山伏というとわたしには勧進帳義経・弁慶一行のイメージが思い浮かぶのだが、細身の女の人だった。
山伏になるには、学ぶことがたくさんあって、勉強期間は、ひとまず十年が必要とか。
次回のフェスティバル参加は、9月の予定。間があいてしまうけど。

最後と最初と

今週に入って、いろいろなところから「これが平成最後の〇〇です!」と言われる。
平成最後の朝礼です、とか平成最後の授業です、とか。
来月になったら、「これが令和最初の〇〇です!」となるのだ。
あらかじめ終わりと始まりがわかっている、初めての元号変わり。
私が平成最後に見た映画は「ダンボ」になりそうだ。
ダンボは、瞳で語るいきもの。
ダンボが生まれて初めて姿を見せたのは、瞳から。
瞳にじわっと滲む涙、瞳に映るサーカスの灯り、その灯りがふっと消えたあとの、暗闇を映す瞳の不安感。
無邪気な瞳は、ただただ世界をそのまま映し出していく。
無邪気なものだけが、奇跡を起こせるのかもしれない。
人を感動させるものは、無邪気なものだけなのかもしれない。
令和最初の映画はなんにしよう?
5月5日は、浅草で「心と体が喜ぶ癒しフェスティバル」で手相観で参加。
令和最初の手相観なのだ。

優しいだけでは

そろそろ半年ごとの歯の検診に行こう、と歯科に予約。
歯科医さんは、御年70代に入ったようすなので、閉店してたらどうしよう、と毎回不安なのだが、今までのように、いつも電話をとってくれる受付の方が対応してくれて、予約完了。
ビジネスは、社員は、変わっていかなくてはならない!という経営者の主張をしばしば聞くけれど、変らずにそこにある、そこにいてくれる、という存在に、どれだけほっとすることだろう。
生産性向上とか、即戦力とか、目標達成ロードマップ、などという言葉に追いかけられていると、優しくあるだけではだめですか?と叫びたくなる。
優しく接してくれる存在、話しやすい存在、という人がいて、その人がいてくれるだけで、どれだけほっとすることか。
優しいだけではだめですか?(もちろんある程度ちゃんと仕事はできるとして)
→ダメ。というより、そういう発想に至ってもいない気がする。

初めて私が仮吉方とりをしたのが2017年。
とった方位には北西の要素が入っていて、覚悟が必要な、過酷な方位と教わった。
たしかに、北西の方位をとるって、こんなにつらいことなのか、という状態の中に、今も私はある。
ただ、仮吉方前の、じぶんが疲弊しきっているようなつらさではない。
ステップアップのために、努力しなければならないつらさという感じ。
北西という方位は、六白金星の本籍地で、優しい六白金星(の人)は最高、と師匠に教わったっけ。
一番高い、一番難しいところに優しさはあるのだろうか。

水のような仕事

先週末は「心と体が喜ぶ癒しフェスティバル」で、今年初の手相観をする。
前回よりもお客さまの数は少なかったので、そうか「水商売」という言葉は「客の人気・都合により収入が左右される商売」という意味ももっていて、そういう意味では、これも水商売じゃないかという気がする。
いや、先がどうなるかわからないという点では、すべての仕事は水商売なのでは?
いつも手相観は、ふだんのじぶんの生活では会えないような方たちに会えて、毎回反射神経がリフレッシュされているような気がする。
手相観のひとうひとつの経験が、じぶんの中に積み上げていく石。
次回は5月5日に出展申込済。
手相観後の疲労をかかえて、定期的に通っているカイロプラクティックへ行く。
すると、一年半、わたしを診ていてくれた担当の方から、5月で退職すると聞く。
ショックを受けつつも、ああ、この人は運勢が強い人なのかも、と思う。
昨年から今年の節分迄のあいだに、何かをやめた人は、運勢が強い。
引退を発表した有名人たちのニュースが流れるたび、そう思った。
節分迄のあいだにやめられなくても、やめる意志を決めて表明していたら、含まれると思う。
じぶんからやめなくても、他者によって、やめる状況となっても、そう。
私の親族は、昨年10月に、十年以上続けてきた仕事の契約終了を告げられてしまった~と連絡してきたので、思わず、すごい、運勢強い!と告げたら、とたんに元気になって、自分から契約終了日を早めてしまったくらいだ。
いろいろな「やめかた」があるんだなあ、と思ったのは、ある友人がやめたもの。
「今年から年賀状をやめることにしたから、返事が届かなくても悪く思わないで」と昨年末に宣言した友人は、長年、人よりも凝った年賀状を送ってきた人だったので、意外だった。
それだけに、友人にとって、この「やめる」は大きなことだったんだな、と納得。

 

できる理由

久しぶりにピラティスのレッスンを受けに行く。
ここしばらくは、じぶんの体調が乗り切れなくて、通う回数がぐっと少なくなっていたり、レッスンの途中で体力が落ちてしまって苦しくなったりという状態だったんだけれど、今回は、思いがけずじぶんの身体がついていって、きちんとレッスンを行うことができて、達成感を味わう。
久しぶりの達成感のせいか、いろいろとこれまでの、ピラティスのことを振り返って考えた。
たしか、習い始めてから12年目に入った。
市販の本を読んだり、レッスンDVDを見たり、いろいろな教室を巡って、今の教室に落ち着いたのは9年前。
ピラティスには定番のポーズがあって、習い始めた当初は、どうやったらそのひとつひとつのポーズが正確にできるのか、夢中になって、考えていた。
本を読んだりDVDを見たり、単発で個人レッスンを受け付けている教室で、このポーズを教えてほしい!と頼んでレッスンしてもらったりしたこともあったけれど。
その頃に、そんなにまで熱心に取り組んでも、ぜんぜん正しいポーズになっていなかった、と今、はっきりとわかる。
時間が必要だった。
正しい動きができるようになるまでには。
いくら頭で考えても、集中して学んでも、正しいポーズはできていなかった。
そもそも、ひとうひとつのポーズがピラティスの完成型でも目的なのでもなく、いろいろな筋肉が整うようになってきて初めて、さまざまな正しい動きに近づくことができる。
今でも、正しい動きはできていない。
でも、褒められることが次第に増えてきた。
そして、じぶんでも、どうして褒められるような、正しい筋肉の動きができるのかは、わからない。
わからないのだ。これが重要なところ。
この部分の筋肉をこう動かして、という先生の指示に混乱しながら、さんざんじぶんの中で、どうやって動かしたらいいか?と問いかけてきて、考えてきて、動かしてきて、その時間の積み重ね。
その結果、「できる」ようになる。そして、なぜできるのか、じぶんでもわからない。
去年の秋に「日日是好日」の映画を見、原作本を読んで、「お茶」も、もしかしてこういうことなのでは?と思う。
「効率的に短時間で取得する」ことが、どうしてもできないことが、世界にはある。

 

観ること、進むこと

今月初めに、手相観として参加した「心と体が喜ぶ癒しフェスティバル」。
浅草開催のときは、順調にお客様が増えてきて、嬉しい。
手のひらの線が多い人より、少ない人のほうが、鑑定は難しいと習った。
たしかに、線は材料で、話の種なので、線が多い人のほうが、生まれる言葉も多い。
でも、一見、線が少なそうに見える人でも、ルーペをどんどん使うと、細かな手のひらの上の線がどんどん見えてくる。線はある。必ず。
他に勉強したいこともあって、体力も時間も足りなくなってきているので、横浜参加は当分お休みして、浅草だけに参加する予定だ。次回は2月下旬。
自分の手相観スタイルは、まだ進行形。
観ることが進むこと。

カレンダーは来年の種

11月は、カレンダーが集まってくる。
じぶんで買い求めたわけではなく、サービスでプレゼントです、って感じで、4点のカレンダーをもらう。
11月は、十二支でいうと「亥」の月だ。
気学を教えてもらったときに、しつこいくらいに十二支が説明されるのが、不思議だったけれど、算命学を学んでいても、しつこいくらいに十二支の説明がされるので、これだけしつこいってことは、骨か血液なみに、重要なことなんだろう、と思うことにしていた。
すると、ときどきふっと、日常の中に、十二支の説明が立ち上がってくることがある。
10月の「戌」の月で、いらないものを切り払ったあとに残されたのが、次の11月の「亥」。
核となるもの、かたい殻で覆われた種のようなもの。
種まきは11月に行う。12月、1月と冬になると、地面が凍って種まきができない。
なおかつ、種には寒い冬を越させないと、芽が出ない、花が咲かないのだそうだ。
「寒い冬」は、苦難や苦労ともとれるもの。冬をスキップしたら花は咲かない。
集まってきたカレンダーは、来年のことを考えはじめるスイッチみたいな、いわば、来年の種である。
来年の種まきは、11月から始まる。
しかも来年はちょうど「亥」の年だし。
いらないものが切り払われた戌の年(2018年)に、ずっと続けていたことをやめた人、捨てた人は運勢が強い。
戌の月にどどどっと、やめる人・捨てる人が駆け込みのように増えた気がする。知り合いにもそういう人が出た。
今年中にそういう状況になったってことは運が強いよ!とほめたたえたら、がぜん元気を取り戻していた。
カレンダーをもらうってことは、種をたくされたような気もして。
嬉しさと焦りと、ときどき落ち込みながら、冬を迎えようとするわたし。