森火土金水

手相と九星気学風水について綴っています。 mori ka do gon sui

好きになる力

じぶんの好きではないことの勉強をしばらく続けていた。
まだ、そのダメージから抜けていないなあ、と感じる。
好きではないことをやり続けていたら、「好きになる力」をずいぶんと削がれていたことに気づく。
「心から好きで夢中になる」ことが、以前はもっと簡単にできていたのに、難しくなってしまう。
ばかだな、わたし。好きではないことを好きになろうとして。
好きではないことを好きになろうと、好きな角度を探したり、好きになる方法を考えてみたりして。
そんなことではこころはだまされない。
そのために好きなことに使う時間や、新たに好きになろうとすることを、とどめたりして。
おかげで好きになるこころのぶぶんが弱ってしまったみたいだ。
著名なデザイナーが住む家や環境の居心地よさにこだわるのは、大切なじぶんを削がれないためなんだろう。
何かを好きになること、何かに夢中になること、ってすごい力なんだよ!と、以前のじぶんに伝えたい。

曖昧なぶぶん

4月から、勤務先での業務の内容が変わった。
それで、今さらながら、気がついた。
私は、自由に伝えることができないのが、とても苦しい質なんだと。
きちっとしたルールがあって、そのルールを疑ってはいけなくて、ルールの枠からほころばせることができないことが、苦しい。
論理的なのは嫌いじゃないし、自由にルールを作っていいいのならまだ救いがあるんだけれど、法律で決められたことだったりすると、それは無理だ。
紙に書く書類よりデジタル書類が合理的とされるのは、紙は、曖昧なぶぶんをうけとめてしまうけれど、デジタルは曖昧なぶぶんをはじくことができるから。
曖昧なぶぶんは、自由なぶぶんでもある。
曖昧は、希望が生まれるところでも、ある。
自由なぶぶんがあると、そのスペースには希望が育つのだ。
じぶんの言葉で、自由に伝えること。
それができる手相観タイムを持つのは、じぶんの中の曖昧なぶぶんが温められる感じ。

晴れと水

二回にわけてとった夏休み。後半の夏休みは、特に予定を立てていなかった。
休み開始前夜に突然、南に行こう!と思い立って、観音崎京急ホテルを予約。
併設の「PASSO」にある、海を眺められる露天風呂に以前から行ってみたかった。
翌日、観音崎を目指して、めったに使わない京急線に乗り込む。
駅のホームの自動販売機で初めて買った飲料水の名前は「晴れと水」。
まさに「晴れと水」のような旅だった。
旅先に、本を一冊持っていこうと思って、海が見える部屋で読むなら?と考える。
華麗なるギャツビー」だ。
海沿いに建つ自邸の向かい側の岬(デイジーの邸宅がある)に灯る、緑色の光に、さっと手をさしのべたギャツビー。
もっていく本は、ギャツビーでしょ、ここは。
静かな馬堀海岸駅に到着し、送迎のシャトルバスに乗り込んで、道を曲がってまっすぐ行った先に、突如、海がひらけた。
海がひらけると、こころがひらける。
この日はさいわい、晴れていたから、余計に海が明るい。
ホテルに到着し、さっそくPASSOに行き、海を眺めながらの露天風呂と、視界を空でいっぱいにしながらの寝風呂に、癒される。
観音崎は、横浜港に向かう船の「横顔」が見える位置。
各部屋に、双眼鏡が置いてあって、船を観察することができる。
船の立てる波音も機械音からも遠く隔たっていると、無音で海の稜線を進んでいく、大きさもかたちもさまざまな船の横顔に、とても癒される。
思いがけず、貨物船がカラフルでとても可愛い。船上に、レゴをきっちり積み上げているような感じ。
夜になれば、海の風景も地味…と思ったら。
遠くの岬(たぶん横浜港)に、緑色の光が点滅しはじめたのだ。
これは、ギャツビーと同じシチュエーション。
緑色の光に答えているように、向かい側の岬には銀色の光が点滅している。
きゅっと絞った光源がつくる、素敵な夜の景色だった。
ちなみに、観音崎京急ホテルには「豪華客船の観音崎通過時刻表」が置いてあって、
それによると私がこの一泊で豪華客船を見られるチャンスは、翌朝の5:00。
目覚めますように、と祈りながら眠って、ふと目覚めたら時計は5:07。きゃーっ
もう行っちゃったかな? 豪華客船って、ど、どれかな。もしかしてあれ?あの大きくて白いやつ?
と、あせりながら双眼鏡で海を見ていたけれど、確信が持てない。
もしかして豪華客船を見逃したかも・・・と思ったけれど、
どうやらその時間帯は、船のラッシュアワーらしくて、つぎつぎとさまざまな船が並んで、大きな船も小さな船も順番を守って、海の上を一列に並んで進んでいるようすに、なんとも癒されて。
5:07に起きられて良かった、と思う。
朝ごはんの後にもPASSOのお風呂を目指したら、外は雨。
独占状態の露天風呂の水面には、雨粒の描く円がつぎつぎと生まれて、それはそれで風流な感じ。
チェックアウト後も午後3時までPASSOを使うことができたので、一度外に出て、走水神社と横須賀美術館に行くことにする。
外に出たら、嬉しいことに雨が上がっていた。
防衛大学海上練習場を横目に見ながら、走水神社に到着。
倭建命と弟橘媛に縁のある神社。古事記の世界だ~
雨が上がったあとなので、神社全体が、水にしっとりと濡れ、本殿の脇に小さな水神社があって、小さな岩棚の中に河童がまつられていたりして、水の威力たっぷりの雰囲気。
荒れ狂う海を収めるために、海に身を投げたという弟橘媛の碑を立てた人物の名には、当時の日本軍のトップが並び、軍港だった観音崎にとって、ぜひともあやかりたい媛だったんだなあと思う。
その後横須賀美術館を経て、再度PASSOに戻り、晴れと雨が交互にそそぐ、海とお風呂をいただいてから、帰宅。
あたたかい水につつまれたような、一泊旅だった。

夏休み、終了。

令和最初のお客さま

こどもの日は、浅草の心と体が喜ぶ癒しフェスティバルに手相観で参加。
令和最初のお客さまはどんな人かなあ、とわくわく。
これ手相観にちょうどいい!と買った、パソコン仕事用のホルダークッションも、使い初めとなるので、細長いクッションをテーブルに置き、クッションと一緒に客まち。
令和最初のお客さまは…11歳の男の子だった。
なんだかとっても嬉しかった。
こどもの日に、かわゆい男の子が舞い降りたっ。
他にも、赤ちゃんを前に抱いたおとうさん、というお客さまも来てくださって、赤ちゃんをあいだに挟みつつ、手相観。
赤ちゃんのおてても見ていいですか?と頼み、おとうさんは喜んで見せてくれようとするのだけど、赤ちゃんは泣き叫んで抵抗。
すると、どうしたの?と、泣き声が聞こえたのか、どこからともなく赤ちゃんのおかあさんが登場。さすがおかあさん。
泣き叫んでいても、両親とも、「赤ちゃんの手相を見てほしい側」だったので、協力してもらいながら両手を見る。
赤ちゃんだけど、三大線がきちっと存在していて、始点の位置にも特徴が現れていて、びっくり。
その後、手相観から解放された赤ちゃんが、じぶんの手のひらを見つめながら、さっきわたしのおててに何したの~って感じで、じーっと私を見ているので、ちゃんと手に注目されていたってことが、わかっているんだなあ、と感動。
今回のお隣さんは、山伏見習いの占術師。
山伏というとわたしには勧進帳義経・弁慶一行のイメージが思い浮かぶのだが、細身の女の人だった。
山伏になるには、学ぶことがたくさんあって、勉強期間は、ひとまず十年が必要とか。
次回のフェスティバル参加は、9月の予定。間があいてしまうけど。

最後と最初と

今週に入って、いろいろなところから「これが平成最後の〇〇です!」と言われる。
平成最後の朝礼です、とか平成最後の授業です、とか。
来月になったら、「これが令和最初の〇〇です!」となるのだ。
あらかじめ終わりと始まりがわかっている、初めての元号変わり。
私が平成最後に見た映画は「ダンボ」になりそうだ。
ダンボは、瞳で語るいきもの。
ダンボが生まれて初めて姿を見せたのは、瞳から。
瞳にじわっと滲む涙、瞳に映るサーカスの灯り、その灯りがふっと消えたあとの、暗闇を映す瞳の不安感。
無邪気な瞳は、ただただ世界をそのまま映し出していく。
無邪気なものだけが、奇跡を起こせるのかもしれない。
人を感動させるものは、無邪気なものだけなのかもしれない。
令和最初の映画はなんにしよう?
5月5日は、浅草で「心と体が喜ぶ癒しフェスティバル」で手相観で参加。
令和最初の手相観なのだ。

優しいだけでは

そろそろ半年ごとの歯の検診に行こう、と歯科に予約。
歯科医さんは、御年70代に入ったようすなので、閉店してたらどうしよう、と毎回不安なのだが、今までのように、いつも電話をとってくれる受付の方が対応してくれて、予約完了。
ビジネスは、社員は、変わっていかなくてはならない!という経営者の主張をしばしば聞くけれど、変らずにそこにある、そこにいてくれる、という存在に、どれだけほっとすることだろう。
生産性向上とか、即戦力とか、目標達成ロードマップ、などという言葉に追いかけられていると、優しくあるだけではだめですか?と叫びたくなる。
優しく接してくれる存在、話しやすい存在、という人がいて、その人がいてくれるだけで、どれだけほっとすることか。
優しいだけではだめですか?(もちろんある程度ちゃんと仕事はできるとして)
→ダメ。というより、そういう発想に至ってもいない気がする。

初めて私が仮吉方とりをしたのが2017年。
とった方位には北西の要素が入っていて、覚悟が必要な、過酷な方位と教わった。
たしかに、北西の方位をとるって、こんなにつらいことなのか、という状態の中に、今も私はある。
ただ、仮吉方前の、じぶんが疲弊しきっているようなつらさではない。
ステップアップのために、努力しなければならないつらさという感じ。
北西という方位は、六白金星の本籍地で、優しい六白金星(の人)は最高、と師匠に教わったっけ。
一番高い、一番難しいところに優しさはあるのだろうか。

水のような仕事

先週末は「心と体が喜ぶ癒しフェスティバル」で、今年初の手相観をする。
前回よりもお客さまの数は少なかったので、そうか「水商売」という言葉は「客の人気・都合により収入が左右される商売」という意味ももっていて、そういう意味では、これも水商売じゃないかという気がする。
いや、先がどうなるかわからないという点では、すべての仕事は水商売なのでは?
いつも手相観は、ふだんのじぶんの生活では会えないような方たちに会えて、毎回反射神経がリフレッシュされているような気がする。
手相観のひとうひとつの経験が、じぶんの中に積み上げていく石。
次回は5月5日に出展申込済。
手相観後の疲労をかかえて、定期的に通っているカイロプラクティックへ行く。
すると、一年半、わたしを診ていてくれた担当の方から、5月で退職すると聞く。
ショックを受けつつも、ああ、この人は運勢が強い人なのかも、と思う。
昨年から今年の節分迄のあいだに、何かをやめた人は、運勢が強い。
引退を発表した有名人たちのニュースが流れるたび、そう思った。
節分迄のあいだにやめられなくても、やめる意志を決めて表明していたら、含まれると思う。
じぶんからやめなくても、他者によって、やめる状況となっても、そう。
私の親族は、昨年10月に、十年以上続けてきた仕事の契約終了を告げられてしまった~と連絡してきたので、思わず、すごい、運勢強い!と告げたら、とたんに元気になって、自分から契約終了日を早めてしまったくらいだ。
いろいろな「やめかた」があるんだなあ、と思ったのは、ある友人がやめたもの。
「今年から年賀状をやめることにしたから、返事が届かなくても悪く思わないで」と昨年末に宣言した友人は、長年、人よりも凝った年賀状を送ってきた人だったので、意外だった。
それだけに、友人にとって、この「やめる」は大きなことだったんだな、と納得。