森火土金水

手相と九星気学風水について綴っています。 mori ka do gon sui

まだ終わっていない

9月末に、無事仮吉方を終えて、自宅に戻った。
しかし、まだ終わっていない。
「自宅に戻った」=「引越した」ことになるための条件がある。
それは、仮吉方の条件と同じ。
75日間、自宅で寝泊りをすること。
75日間、仮吉方宅内にあった飲食物を口に入れないこと、仮吉方宅周辺2キロ以内の飲食、宿泊、うたたねをしないこと。
(この条件を見越して、仮吉方先は、勤務先や学校に近いところなど、じぶんが通常の生活で用事が生じそうな場所を避けて選んだほうがいい)
この75日間が終われば、引越したことになる。
自宅に戻ってきて、もうすぐ三週間になる今、一番つらいのは、「仮吉方宅周辺2キロ以内の飲食をしない」ことだな。
気に入っていたカレー店があったのだ。75日経過したら、またあのカレーを食べに行くんだ!と決意をしておく。
それまでは、カレーの代わりはカレーで埋めよう!仮吉方宅周辺から離れた、別のカレー店を開拓しよう!と決意をする。
というわけで、一軒、開拓した。
ハブモアカレー。
まんなかの大皿に抱きとめられた、満月のようにつやつやしたターメリックごはんを、衛星のようにカレーと惣菜の小皿がとりかこむカレープレート。
味も気に入ったんだけれど、初めて食べたあと、1時間後くらいに突如、身体がほかほかとあたたかくなってきたのに感動。
その「身体のあたためかた」が、衣類やホッカイロや他の食べ物では得られない、身体の内側に陽だまりが生まれたような、不思議なあたためぐあい、やさしいあたためぐあいなのである。
飲み物は、コーヒーと紅茶がメニューになく、かわりにハーブティとレモネードがある。
もしかしてコーヒーと紅茶は身体を冷やすから?なんだろうか。
店内は、女性ひとり客も多くて、あたためぐあいにとりつかれてしまった人たち(わたしも含め)のように思えてならないのだった。

アンテナ過多

今、三人目の手相観の先生の授業に通っている。
一人目の先生、二人目の先生は、一日で長時間教える授業を数日、というカリキュラムだったけれど、三人目の先生は、一回に二時間の授業を、月に二度、十ヶ月かけて、行う。
三方向から学んで、実占も積んでいくつもりなのである。(すでに実占に踏み切っているが)
三人の先生の、三つの色、三つのかたちは、それぞれ違っている。
一人目の先生からは、周囲をも感動のイメージに巻き込んでしまうような言葉の表現力を見せてもらった。
二人目の先生からは、圧倒的な技術力。この技術をどこまでじぶんも取得していけるか。
三人目の先生からは・・・授業そのものは、一人目の先生と二人目の先生の中庸をいくような内容なのだけど、対話のしかたとか、気づきを少しずつもらっている気がする。
何回も、先生に会いにいく、という授業のスタイルは、ゆっくり育っていくものがあって、ゆっくり気づいていくものがある。
授業の内容が進むたび、先生は、わたしの手相を何度も目にしていて、少しずつコメントをくれる。
授業の回数が多いから、わたしの話しかたも何度も耳にしていて、それにも少しずつコメントをくれる。
わたしの手は、アンテナがたくさん立っているような相で、いろいろなことに感じやすい手相なんだそうだ。
それは活かしかたが悪くでると、悩みすぎる方向に行ってしまいかねないけれど、活かしかたの良い方向を探し当てれば、力になるはずのもの。
わたしは、どうでもいい材料をネタに、とても面白い話ができるから、鑑定のときにもそれを活かしてね、と言われたり。
で、ふと気がついた。今さらながら。
わたしの手相に現れた多すぎるアンテナ、感じやすさ。
この感じやすさは、仕事で、大いに役立っているときもあるけれど(精密さなど)、
仕事仲間に気を使わせてしまう原因になるときも、あるな。あるよ、きっと。
そういうシーンでは、もっとおおらかにかまえたほうがいいな、わたし。
だけど、人を鑑定するときに、この感じやすさは、ものすごく役に立つんじゃないか。そんな気がする。
知り合いを実占していると、もっとわたしのことを話して!もっとわたしのことを語って!というようすが共通しているもの。
勉強はつづく。

戦う線

手相の中には「じぶんと戦う線」と「じぶん以外のものと戦う線」がある。
前者は忍耐力や努力につながって、後者は勝負や競争や目標達成意欲につながる。
わたしの手には、両方の線がある。
「じぶんと戦う線」はともかく、「じぶん以外のものと戦う線」がある人っぽく見えないですねえ、と言われたりする。
こどもの頃から、勝負ごとに勝ちたいという意欲はまるっきりなかったので、じぶんでもたしかにその線があることを不思議に思ったりする。
でも、わかった。
じぶんにどんなかたちで「じぶん以外のものと戦う線」が現れるかを。
「じぶんと戦う線」もあわせもっていると、どうなるかを。
「たったひとりで戦う」というかたちになるのだ。
「わたしがやれ」という仕事が増え続ける。(一方、給料は減らされる。)
わたしじゃなくて他の人にという願いが聞き届けられることはない・・・その連続の数年間。
「他の人」に仕事を渡せなくて、「わたし」も仕事を受けられない場合、どうすればいいか?
「わたし」を救う手立てを「わたし」が考える。
救う手立てを考えついたら、それを実行するために、戦いがはじまる。
たったひとりで戦うけれど、協力してくれる人が現れてくる。
今回の戦いは、「倒れている人に手をさしのべて助けるのではなくて、倒れている人に起き上がり方を教える」
という作戦をとる。
戦いはエリートのものだけではないのだ。女性の非管理職でも、戦っているのだ。

仮吉方が終わる

仮吉方宅で眠るのは、今日が最後だ。
明日、本宅に戻る。
本宅に戻ることが、引越しとなるのが、仮吉方。
果たして本当に引っ越したことになるのか、わからない。
どんな効果があるのか、なんの効果もないのか、それもわからない。
今月は、私の星、六白金星が、北に位置した月。年盤でも北に位置している。
九星気学では、どの星でも、試練のときが、おおざっぱにいうとふたつある。
暗剣殺に位置したときと、北に位置したときだ。
ふつうはどの星も、9年間に試練のときが二度、まわってくるのだけど、六白金星だけはちがう。
9年間に一度、ふたつの試練が同時にまわる。

そう、今年、今月の六白金星は、暗剣殺でもあり、北にも位置しているのだ。
強すぎる六白にしか耐えられない試練とのこと。
天は、六白を本物にするために、六白をたたく。
炎の中で叩かれて、剣が磨き上げられるイメージ。
・・・うん、たしかに、9年のあいだに、試練が二度に分けてこられるよりは、一度にやっちゃって、と思うなあ、わたし。
六白金星が北に位置する月は、じぶんの内側にも外側にもトラブルが起こるが、今月もそうだった。
お金も人もいなくても、知恵でのりこえよう、と思ったりした。
お金も人もあるけれど、知恵がない、よりはずっといいんじゃないかって。
こどものころも、大人になっても、家庭でも職場でも、(じぶんだけではなくじぶん以外の人の)知恵を育てる時間と場をつくることができているのかどうか?
じぶんで育てなくても、外で育ったものをお金で買ってくればいいのさ、という集団もあるかもしれない。
仮吉方が終わる日に、まだ終わっていない試練について、考える。知恵について、考える。

謎の手帳

わたし(発信者)ってすごい!ではなく、あなた(受信者)ってすごい!になるものが、商売になる、と思ったのだが。
そういえば「ほぼ日手帳」もそうなのかもしれない、と思った。
頁を埋めるのはあなた、まっしろな頁のままではすごくない、すごくするのはあなた、って商品だもんね。
ここ二年くらい、わたしのほぼ日手帳の使い方は、易(えき)ノートになっている・・・。
易の卦(け)を出したとき、その卦の名称を、日付と問いとともにメモしておくのだ。
易は、相(そう)・命(めい)・ト(ぼく)の占術三カテゴリの中でいうと、ト(偶然性を元にする)にあたるもの。
易は、人のことは占えない、とわたしは教わった。
問う人自身が筮竹をもたなければ、本当の答えは出ない。答えはその人の中にしかないから。
たとえば、じぶんでは全く解き方が分からないテストの問題の答えを易にきいちゃおう!と思っても無駄。
その人の頭の中にある事象が、そのまま卦になるだけ。
以前、「駐車スペースが2Fにある家屋は吉?凶?」と聞かれたとき、わたしにはわからないことだったので思わず易をたててみたら・・・・ああ、「2Fが駐車スペースの家屋」を6本のバーを使って記号・抽象化したら、たしかにこの卦だね、というものが出たの。こういうことかーって思った。
「2Fが駐車スペースの家屋」しかわたしの頭にはないから、それをそのままあらわすことしかできなかったわけ。
じつは、筮竹の所作は簡単なのだ。出た卦の解釈こそが難しい。
この解釈する力を磨くには、オーソドックスな易経原文の解説書と、そのときに出た卦と、そのときのじぶんのこころを見つめて考えていくしかない、と思うようになった。
ときどき、あ、叱られた、と思う卦に出会うこともあり。
悪いこと(明日の会議で上司をいじめてやろう)をしようとして易を立てたら、とてつもなく悪い卦「天地否」(てんちひ)が出て、じぶんの悪いこころを見抜かれて、しゅんとなったりして。(会議で上司をいじめるのはやめた)
易の卦の名前が、いちいちかっこよかったり、なぞめいているのも気に入っている。
天雷无妄(てんらいむぼう)、とか、地火明夷(ちかめいい)、などとほぼ日手帳に(漢字のほうを)書き込むわたし。
知らない人が見たら、謎の手帳に見えるだろう。

九紫がつづいている

仮吉方を開始して、70日が経過。
先週、とつぜん近所に現れたのは、御神輿だった。
週末には、氏子町内を、御神輿が巡った。
一台ではなく、氏子町内のいくつかのスポットに、計三台くらいあったようす。(二台見たから)
御神輿って、どの星の象意だろう?と考えた。
学んできた中で、御神輿はこれ!とずばりとは教わっていない。
そういう場合、意味あいから考えていくしかない。
ふだん神社にいる神霊が、輿に入ってくれるのが御神輿・・・。
神具、仏具は、九紫火星のアイテム。
神霊も九紫火星のもの。
あのきらきらした装飾ぶりは九紫スタイルの本道。
というわけで、御神輿は九紫火星の事物だ。と決めるわたし。
加えて、御神輿が町内を巡る出発時間は、なぜか午後1時。
午の刻、九紫の時間だ。
赤口(しゃっこう)が、午の刻のみ、大吉なのは・・・そのとき、天が口をあけるから、と教わった記憶がある。
天が口をあけるんだから、神霊が輿に降りる時間帯は、午の刻をおいて他にないんじゃなーい? 御神輿は九紫火星、でまちがいないんじゃなーい?
待機中の御神輿の前を通ったので、ちょっと観察。
御神輿のてっぺんには鳳凰(これも九紫火星の象徴)がのっている!
その鳳凰は、お米の入った本物の稲穂(二黒土星のアイテム)をくわえている・・・。
仮吉方の地は、四緑木星、九紫火星、二黒土星がやどるところ。
早めに現れ、その後も長続きしているのは四緑、派手に現れているのが九紫。二黒も地味に、現れている。
星のスタイルそのままの現れ方なのが、面白い。
あと二週間で、仮吉方生活が終わる。

じぶんの畑

今、わたしが手相から紡ぎだすことができる情報量は「10分間語れる程度」だ。
プロでもそうじゃないかと思う。制限時間、だいたい10分間だもん。
でもさー、10分じゃすまないの。
相手がなかなか席を立たない。
わくわくしている感じなの。
もっともっと聞きたい、ってようすなの。
わたしのこともっと話して!って感じなの。
30分くらい話せれば、満足してくれるようす。
人生相談、職業相談、健康相談のような、別の話題に膨らんでいけば、話せる時間はもっと長くなっていくと思うが、じぶんの情報を語らない相手となると。
手相だけじゃ、情報の畑としては、足りないのである。
もっと広い畑が必要なのだ。
仕方がないので、誕生日を教えてくれる相手の場合は、九星気学のほうも駆使する。
算命学を勉強中なので、いずれは算命学のほうを駆使できると思うが、それまでは、限られた畑を耕すしかない。
占術の世界では、相(そう)・命(めい)・ト(ぼく)の3つのカテゴリがあって、3カテゴリそれぞれの、技術を習得しておいたほうが、たしかに良さそうである。

(相(視覚的な情報を元にする)カテゴリからは、使おうと思えば3つ使えるんだけどわたし)
だって情報が獲れる畑が広くなる。じぶんの畑が広くなる。
・・・畑って、技術のことだけじゃないなあ、きっと。