森火土金水

日々思うこと、さまざまな占術について綴っています。 mori ka do gon sui

観察と真心

手相観デビューをした昨日、日曜日。
会場では、開始前に、出展者が集まって、3.11の黙祷をする。
160名以上の出展者の中には、セラピストやサイキッカーや透視者などが大勢いることを思うと、この黙祷のパワーも、特別に濃いのではないかと思いつつ。
その前夜に、心構えの易を立ててみた。
出た卦は、風地観(ふうちかん)。
不思議な卦だ。解釈が謎の卦。悪いわけではないけれど、すごく良いというわけでもない卦。
主役でも悪役でもなく、脇役で目立たず、出番も少ないけれど、演技者からは、演じたくて人気のある役柄みたいな感じの卦。
あまりもらったことのない卦だったので、なんでこの卦が出たのか謎で、易経の解説書を読む。
熟考と観察の卦。
じっくりと観察し、真心をもって判断せよ。あ、すごい、そのとおりだ。
手相の先生からは、お客は来るときは来るけれど、来ないときはぜんぜん来ないから、お客ゼロじゃなければいいと思って、そしてお客が来たら、真心を持って鑑定しなさい、とアドバイスをもらっていた。
幸運や成果や情熱や苦悩とは無縁の卦、風地観が出たことが、とてもしっくりくる。
必要なことは、観察と真心。それだけでいいんだ。
この先、また「風地観」の卦をもらうこともあるだろうけれど、この夜の「風地観」は、わたしの中で、一番記憶に残る「風地観」かもしれない。
そしてそして。
手相観デビューの一日を終えた。
新参者出展枠価格、500円が効いたのか、途中から数えるのをやめたけれど、観たのはたぶん17名。
13名観終えたころ、先生が、出展している生徒たちをたずねてきてくれた。みな盛況なようすとのこと。
先生いわく今日は「お客が来る日」だったらしい。そういう日にデビューできて良かったーっ。
10時半から17時まで、飲みものだけで、食べものいっさいなしで通してしまい、疲労困憊しながら帰宅する。
占い慣れしているお客さんが多かったから、実力を測られているような気がしたこともあったけれど、夢中で観つづけていたので、好評だったのかどうかはよくわからないけど、やりとげたのが嬉しい。
疲労困憊しながら眠りについた、その夜の夢に登場したのは、なぜか、ジャガー柄の子猫。
片手で子猫を抱き上げると、私のひじを鉄棒代わりに、子猫がくるりくるりと大車輪を始める夢。
めちゃんこキュートな風景だった。ごほうびかな。

お隣は透視者

手相観を出展するフェアの、ブース位置のお知らせが来た。
ブースナンバーの末尾がわたしのラッキーナンバーなのが、ちょっと嬉しい。
ご近所の出展者も、見てみる。
同じジャンルが隣り合わないように、工夫を重ねている感じがする。
わたしの隣は透視者の人か、ふーん。
・・・なんだか、面白くて笑いがこみあげてきた。
お隣は透視者。
こんなシチュエーションがわたしの人生に登場するなんてっ。
想像だにしなかった、シチュエーション。スターウォーズな気分。
想像できることは夢じゃない。
わたしの夢は、人類の夢は、地球の夢は・・・幾多の予想が語らわれても、それは夢じゃない。
だれも想像ができないことが夢。

→3/11(日) 浅草のこちらのフェアに参加。出展名は「手相のすすめ。」
http://iyashifes.com/tokyo35

デビュー準備

手相観デビューが決まった。
ダメモトで出展枠のキャンセル待ちを申し込んでいたフェアから、キャンセル枠が出たとの知らせ。
初参加者と二回目の参加者が出展可能な、500円商品枠に、出展することになった。
知り合いの手相観はしてきたけれど、知らない人の手相観は初めて。
実力が試される。
今まで手相観をした知り合いからは、ほぼ全員から「また観てください」と言われた。
それは、わたしという人間を知っている相手だからこその、信頼から出た言葉だったのかもしれない。
こんどは、わたしを知らない人が相手。
わたしの手相観は通用するのか、信頼されるのか。
不安とわくわくを並走させながら、手相観テキストの復習をしつつ、アイテムを準備中。
テーブルクロスを買いにいったり、出展名プレートをつくったり、おつりの500円玉をストックしたり。
準備は、けっこう楽しいぞ。
→3/11(日) 浅草のこちらのフェアに参加。出展名は「手相のすすめ。」
http://iyashifes.com/tokyo35

 

切り替える年

異動希望を出してから二週間。
最近、夜、眠れるようになってきた。
とはいえ、希望かなわず、異動しないままかもしれない。
でも、「異動希望者」として、会社から認識されることになる。
考えるほどに、異動すべきだという思いが強くなってきている。
わたしの仕事をいっしょにやっていた人がどんどん減っていき、
派遣スタッフもゼロにしなくてはならない状況になって、
もうわたしひとり(これってワン・オペ?)しかいない状況になって、
それでもなんとか回していける方法を必死で考えて、
これならなんとかやっていけるかな、と思うところに来た。
でも、気がついた。
わたしの仕事をしたい人は、社内にいないようだ。
ということは、わたしの仕事を引き継ぐこともできない。
だけど、わたしの仕事のかたちを全く変えて、やりたがっている人たちが出てきた。
わたしは、わたしのやってきた仕事を終わらせるべきだ。
今まで仕事で積み上げてきたものを捨てるべきだ。
経験も知識も信頼もすべて。
雇用されている人間は、遅かれ早かれ、そういうときが来る。(定年とか)
そういうときに慣れておけると思わないと。
仕事にしがみついているように思われるのもいやだし、異動するんだ!
と、決めたものの、ぐっすり眠れない日々がつづいていた。
でも、ふと、最近、チェックしていなかった、九星気学分野の、2018年についての情報に触れたとき、驚く。
<2018年は大転換の年。 価値観を全く変える一年。
今までの自分の生き方にしがみついていると取り残される。
今まで努力してきた事があったとしても、そんな努力とは無関係に、 全く新しい状態にシフトする。
 過去の実績、過去の栄光、過去の努力、 長く続けてきた職業、獲得した資格、そういうものに、しがみつかない事が必要。>
だいじょーぶじゃん、わたし!変化にのっているじゃん!
とたんに、夜、眠れるようになった。
昨日のお昼、最近足を向けていなかった、老舗のおにぎり専門店に足を向けると、そこには「閉店しました」の貼紙が。
何十年も営業してきた老舗だから、経営不振などの原因ではないはず。自ら選択した「終り」のはず。
ちゃんと今年の変化にのったお店だといえるな。
夫婦で営んでいたおにぎり専門店は、おつりを差し出す奥様の手が、指長の芸術家的な手で、おにぎり屋さんを営む手ではないなあ、といつも感じていた思い出がある。
おにぎりじゃなくて、手を思い出にしているわたしなのだから、手相を観ることになったのも自然なことだ、きっと。

激しさのモト

実在の人物をもとにした鑑定練習を最近始めている。
鑑定の材料の算出は、自動計算ソフトも使用できるけれど、それに頼らずに手動で計算していく。
そのほうが技術が身につくし、答えあわせもできるし。
先週末は、鑑定練習に、○ティーブ・ジョブズを選んだ。
せっせと手作業で計算し、人体図をつくってみたとたん、まきおこる違和感っ。
らしくない。彼らしくない、この人体図。そんな違和感。
答え合わせをしてみたら、やっぱり、一箇所、計算の仕方をまちがえていた。
こうやって練習を重ねていけば、間違いも少なくなるはず。
計算をやりなおして、できあがってきた人体図を見たとき。
うん、これだ。なんだかすごく、彼らしい。
できあがったのは、火と水だけの人体図。
木も土もない、相容れない関係同士の、火と水だけをもつ人物。
熱さと冷たさを両方持ったら、激しい葛藤が生まれる。
コンピュータの世界のモトは、0と1だけ。
0と1があれば、世界がつくれるように、火と水だけで、つくられた世界がある。人間の中に。
算出する鑑定材料は、人体図だけではないけれど、
できあがった瞬間に呆然となったり、惚れ惚れしたりするのは、人体図だなあ。不思議。

表現したいきもち

知人が油絵を初めて、夢中になっている。
絵画塾に通っているわけではなく、独学で好きなように描いていて、アマチュアの団体の展覧会にも出品。
知らせをもらって、展覧会を見に行った。
展覧会に足を踏み入れたとき。
そういうことか、と思った。
展覧会というと、プロの芸術家、芸術を生業とする人によるものばかり、観てきた。
マチュアが描いた作品が並んだ展覧会は、作為のなさが、ここちよかった。
描きたいきもちが満ちている空間なのが、ここちよかった。
じぶんの中に表現したいものがあるから、描かずにはいられないのだ。
表現したくてたまらないものがあるから、それをする...のは、魂が求めることだからする、ようなものだ。
ただ、魂だけ優先していると、肉体を損ねてしまいかねないのがむずかしい。
極寒の休日、めんどうだな、もー、と思いながらピラティスに行って、使っていなかった筋肉がめざめて動いてほこほこあたたまって、魂が求めていなくても肉体は求めていたことなんだな、と発見しつつ、そう思う。
生きている限り、魂と肉体は両輪稼動。ふたごの親のように、面倒をみる。

生まれたときから二重感情線

手相の、感情線が二本ある状態を、二重感情線という。
私は生まれたときから片手に二重感情線がある。
その後も、感情線は、三本目、四本目と増殖中である。どこまで増えるんだか。
二重感情線といってもさまざまなものがあって、ひとくくりに意味合いの判断はできない。
感情が二倍、情熱も二倍であって、その二倍感がどのようなかたちで現れるかは、いろいろだから。
じぶんが二重感情線だから、じぶんの場合は、こう現れたたな、と思うことはある。
それまで継続してきたことを、突然、ばっさり断ち切ってしまう、という現れ方。
それは、人間、モノ、コト、すべてに渡って。
一本の感情線の情熱が、突然途切れて、あらたにもう一本の感情線の情熱が始まるみたいに。
長年の友人にそのことを指摘されて、そこまで完璧に断ち切らなくても、と助言され、意識して「ばっさり断つ」ことを、なるべくしないようこころがけてみた。
最近ひさびさにやってしまったのは、半年前に、それまで五年間毎月通っていたマッサージ店を断ち切ったことかな。
わたしが一生懸命とりくんでいることを、大金を生み出さないことは価値も低い、という言われ方をしたときに、もう二度とここに来るのはやめよう、と突然決めた「ばっさり」だった。
だから、わたしにとっては、長く継続してきたことを、あるときばっさり断ち切ることは、得意ワザなはずなのである。
その得意ワザをやろうとしているのに、苦しいのは、仕事かプライベートかのちがいなのかな。
プライベートのばっさりは平気だけれど、仕事のばっさりは難しい。二重感情線のくせに。