森火土金水

日々思うこと、さまざまな占術について綴っています。 mori ka do gon sui

譲るオトナ

先週のNHK「SONGS」での、井上陽水玉置浩二のデュエット。
井上陽水の小さなしぐさが、とてもいいと思った。
歌いながら、玉置浩二に、お先にどうぞ、アフター・ユー、的な、手の平を差し出すしぐさ。
一番の聴かせどころな部分を、玉置浩二のほうに譲るしぐさ。
歌い手がふたりである限り、戦いのようなデュエットになったり、仲良しのデュエットになったり、いろいろなデュエットの様相があらわれると思うが。
これは、譲り合いのデュエットともいえない。
「譲る側」が決まっている。「譲られる側」が決まっている。
年上の人が年下の人に譲るという様相。
「譲るもの」は、モノより、チャンスのほうが、しっくりくる。
そして、譲る人よりも、譲られた人よりも、譲る人と譲られた人を見ている人が、しあわせになる。
譲る人は余裕があるからこそ、譲る人になれる。
「譲る年上の人」になりたいものである・・・。

苦しみを噛み砕く。

一般職が直接仕事の話をしていいのは、すぐ上の役職の人だけ、それより上の役職の人に話をしてはいけないというのが、勤務先の暗黙のルール。
それは、すぐ上の役職の人の判断のふるいにかけられ、そのふるいから落ちれば、誰にも話が伝わらないことを意味する。
先日、わたしがぶちあたった状況だ。
しかし、この話、ふるいから落ちるのはどう考えてもおかしい、という思いがどうしても離れなかったので、ここは飛びワザを使うしかない!と思って、パワーハラスメント相談を申し込んだ。
役職を二段飛びしたところに声を届けるには、これしかないという状況なのよ。
それに、パワーハラスメントの規定を読んでみて、これは今のわたしの状況にあてはまる、筋違いの行動に出ているわけではないとも思った。
相談に行く前に、心構えを問う易を立ててみた。
火雷噬校(からいぜいごう)。
易の卦の一覧の中で、この卦の名前、なんてスケアリーなんだろう、とわたしが他人事のように思っていた卦が初めて出たっ。
卦の解説を読み始めたとたん、この状況で、この卦が出たのは、まさに状況と卦のジャンルが適合しているから、易はちゃんと出された、と確信した。
(まったくジャンルちがいの卦が出たときは、問いが放棄されたと思っていい。)
さらに、爻の解説を読んだとき、この相談、わたしの訴えが通る、と直感した。
そこで、二人の相談員に一生懸命説明。嘘と誇張は絶対に挟まないように。関係者に後付の調査が入るはずだから。
相談員は、とても熱心に話を聞いてくれる。「真摯な姿勢で人の話を聞く」というだけでもこんなに励まされるんだな。
わたしも「真摯に聞く姿勢」を、身につけようっ。
話し終わると、これからわたしたちがどう動くかなんだけど、こうやって動こうと思う、話しにいく相手はこの人とこの人にしようと思う、と説明されたのが、とても納得する助かる内容で、相談員は、組織図とはまったく関係ない道筋を動ける人なんだっ、道筋にも明るい人なんだっと思う。
「組織の中にいる、自由な道筋を行ける労働者のサポーター」は、労働環境の緊急薬だっ。
そしてそして。
・・・訴えは通った。
三週間後、結果の説明あり。
ふるいから落ちて、それっきり捨ておかれるはずだった訴えが、役職を超えて部署を超えて飛び立って、複数の人間が動いてくれることになった。
時期にも助けられた要素が大きくて、もしも訴えが葬られたまま冬になったら、聞き入れてあげたくてもどうすることもできなかったけれど、今なら準備する時間がある、と。
わーん、早く動いて良かったーっ。じぶんの声をちゃんと聞いてよかったーっ。

 

伝達と攻撃

算命学の点から見ると、私には伝達と攻撃の要素が多いから、営業などの仕事が会いますよ、と言われたのが意外だった。
営業の仕事は、やりたいきもちも持ったことがないし、実際に、ずうっと縁がないんだけど・・・。
わたしにとって「営業の仕事」のイメージって、「雇用者が売りたい商品を勧める被雇用者」だ。
わたしが歩いてきた、見てきた世界では、そういうものだった。
じぶんが売りたいわけではない商品を売るのってタイヘンだなーと思っていたけれど。
・・・・営業の仕事って、そういう意味ではないのかも。
「伝達」と「攻撃」のブレンドにもいろいろある。
たとえば、じぶんがいいと思ったもの、その良さや思いを、攻撃的なくらいに、うざいくらいに、伝えるということ。
そういうことだったら、たぶんわたし大好き。
でも、じぶんが良いと思っていないものを良いと伝えるテクニックは、ないっす。たぶん。
わたしの中では、「営業」ということば自体が狭い歩き方をしていたけれど、じぶんが見知った世界から離れて、もっと広いところを歩かせて考えると、可能性も表現の仕方も、広くなっていくんだ。
伝達はともかく、じぶんの中に攻撃要素が多いってなんだかなー、と思っていたけれど、いいかも、攻撃。

秋土用

秋土用が始まっている。
わたしは土用中は、小さく体調を崩すことが多くて、たいていは口内炎になる。
今回は、めずらしく口内炎にならないなあ、と思ったら、腸に来た。
ふだん、腸が不調になることはあまりないんだけど、腸がヘタっているらしく、しばらく少食にして、繊維質は避け、柔らかいものを食べるように(+一週間の整腸剤)との診断。
おかげで、味噌汁とおにぎり、スープと菓子パン、など、こういう内容の食事は良くないとじぶんが信じていた食生活の、土用中。・・・良くないと信じていたけれど。
玄米とか雑穀米とか野菜とか肉とかカレーとかワインとかチョコレートとか、じぶんが元気になると信じるものを食べていたけれど、腸にとっては、ハードな労働を強いられていたということだ。
しばらく腸を甘やかしてあげねばならない。いつまでも甘やかしてもいられないけれど。
食べものは、簡単で確実な、元気になる手段。
でも人間の身体は、食べものだけを幸せのよすがにできないように、されている感じ。

まだ終わっていない

9月末に、無事仮吉方を終えて、自宅に戻った。
しかし、まだ終わっていない。
「自宅に戻った」=「引越した」ことになるための条件がある。
それは、仮吉方の条件と同じ。
75日間、自宅で寝泊りをすること。
75日間、仮吉方宅内にあった飲食物を口に入れないこと、仮吉方宅周辺2キロ以内の飲食、宿泊、うたたねをしないこと。
(この条件を見越して、仮吉方先は、勤務先や学校に近いところなど、じぶんが通常の生活で用事が生じそうな場所を避けて選んだほうがいい)
この75日間が終われば、引越したことになる。
自宅に戻ってきて、もうすぐ三週間になる今、一番つらいのは、「仮吉方宅周辺2キロ以内の飲食をしない」ことだな。
気に入っていたカレー店があったのだ。75日経過したら、またあのカレーを食べに行くんだ!と決意をしておく。
それまでは、カレーの代わりはカレーで埋めよう!仮吉方宅周辺から離れた、別のカレー店を開拓しよう!と決意をする。
というわけで、一軒、開拓した。
ハブモアカレー。
まんなかの大皿に抱きとめられた、満月のようにつやつやしたターメリックごはんを、衛星のようにカレーと惣菜の小皿がとりかこむカレープレート。
味も気に入ったんだけれど、初めて食べたあと、1時間後くらいに突如、身体がほかほかとあたたかくなってきたのに感動。
その「身体のあたためかた」が、衣類やホッカイロや他の食べ物では得られない、身体の内側に陽だまりが生まれたような、不思議なあたためぐあい、やさしいあたためぐあいなのである。
飲み物は、コーヒーと紅茶がメニューになく、かわりにハーブティとレモネードがある。
もしかしてコーヒーと紅茶は身体を冷やすから?なんだろうか。
店内は、女性ひとり客も多くて、あたためぐあいにとりつかれてしまった人たち(わたしも含め)のように思えてならないのだった。

アンテナ過多

今、通っている手相観の先生の授業は、一回に二時間の授業を、月に二度、九ヶ月かけて、行う。
何回も、先生に会いにいく、という授業のスタイルは、ゆっくり育っていくものがあって、ゆっくり気づいていくものがある。
授業の内容が進むたび、先生は、わたしの手相を何度も目にしていて、少しずつコメントをくれる。
授業の回数が多いから、わたしの話しかたも何度も耳にしていて、それにも少しずつコメントをくれる。
わたしの手は、アンテナがたくさん立っているような相で、いろいろなことを感じとりやすい手相なんだそうだ。
それは活かしかたが悪くでると、悩みすぎる方向に行ってしまいかねないけれど、活かしかたの良い方向を探し当てれば、力になるはずのもの。
わたしは、どうでもいい材料をネタに、とても面白い話ができるから、鑑定のときにもそれを活かしてね、と言われたり。
で、ふと気がついた。今さらながら。
わたしの手相に現れた多すぎるアンテナ。
このアンテナは、仕事で、大いに役立っているときもあるけれど(精密さなど)、
仕事仲間に気を使わせてしまう原因になるときも、あるな。あるよ、きっと。
そういうシーンでは、もっとおおらかにかまえたほうがいいな、わたし。
だけど、人を鑑定するときに、このアンテナは、ものすごく役に立つんじゃないか。そんな気がする。
知り合いを実占していると、もっとわたしのことを話して!もっとわたしのことを語って!というようすが共通しているもの。
勉強はつづく。

戦う線

手相の中には「じぶんと戦う線」と「じぶん以外のものと戦う線」がある。
前者は忍耐力や努力につながって、後者は勝負や競争や目標達成意欲につながる。
わたしの手には、両方の線がある。
「じぶんと戦う線」はともかく、「じぶん以外のものと戦う線」がある人っぽく見えないですねえ、と言われたりする。
こどもの頃から、勝負ごとに勝ちたいという意欲はまるっきりなかったので、じぶんでもたしかにその線があることを不思議に思ったりする。
でも、わかった。
じぶんにどんなかたちで「じぶん以外のものと戦う線」が現れるかを。
「じぶんと戦う線」もあわせもっていると、どうなるかを。
「たったひとりで戦う」というかたちになるのだ。
「わたしがやれ」という仕事が増え続ける。(一方、給料は減らされる。)
わたしじゃなくて他の人にという願いが聞き届けられることはない・・・その連続の数年間。
「他の人」に仕事を渡せなくて、「わたし」も仕事を受けられない場合、どうすればいいか?
「わたし」を救う手立てを「わたし」が考える。
救う手立てを考えついたら、それを実行するために、戦いがはじまる。
たったひとりで戦うけれど、協力してくれる人が現れてくる。
今回の戦いは、「倒れている人に手をさしのべて助けるのではなくて、倒れている人に起き上がり方を教える」
という作戦をとる。
戦いはエリートのものだけではないのだ。女性の非管理職でも、戦っているのだ。