森火土金水

日々思うこと、さまざまな占術について綴っています。 mori ka do gon sui

階段を降りるジョーカー

映画「ジョーカー」を観た。
主人公のアーサーが、街中の長く続く階段を上っていくシーンが印象的なのだけど、上っていくアーサーの後姿はとても苦しげで、それは生きることの苦しみそのものが現れているよう。
そして、アーサーがジョーカーになったとき、ジョーカーは階段を上らず、降りるのだ。
とても楽しげに、クールに、生き生きと。
階段を上るのが苦しければ、降りればいいんだ、とあるとき気がついたような、ふっきれたような、爽快といっていいほどの突き抜け方で。
階段の上の世界ではなく、下の世界に、アーサーの、ジョーカーの生きる場所がある。
バットマンに登場するさまざまな異形のキャラクターは、バットマン自身も含め、異星人やモンスターというわけではなく、もともと人間のはず。
人間が異形の者になるのには、そうなる理由があるからなのだ。
この映画で語られるのは、アーサーがジョーカーになった理由。
生まれたときから過酷な日々を生きてきたアーサーに、たったひとつ残された希望はコメディアンになること。
その希望が窯変して、ジョーカーが誕生した。
たったひとつ残った希望を最後まで捨てなかった主人公の、生への希求は、哀しくて魅力的で、心が撃たれる。
二度観るのはつらいけれど、階段を降りるジョーカーには、もう一度会いたい。

 

胃カメラと仁と青いドア

徐々に、じぶんを取り戻していっている感じがする、この一ヶ月。
自宅マンション(築51年)が、建物内の壁と天井を真っ白に塗りなおし、玄関ドアも水色から深い青色に塗替。
色は管理組合が決めているのだけど、前回の水色のドアといい、毎回センスのいい色を選んでくれるなあ、と感謝。
じぶんの居住スペース内では、ずっとさぼっていたベランダと窓ガラスと換気扇周りの掃除をやっと終了。
(換気扇の埃よけシートを急遽買いに出た渋谷の東急ハンズに向かう途中の渋谷センター街では、どこを歩いても、ベスト盤発売の宣伝か、安室奈美恵の歴代のヒット曲が流れ、歩きすすむたびに曲が変っていき、こんなことができるアーティストと街の縁があるって、素敵だなあ、と思ったり)
それから、一年に一度の各種、身体の検診に2病院へ。
人生二回目の胃カメラの検診もしに、初めての病院へ。
(麻酔をかけてくれて、検査中も検査後もいっさい痛みがなく、丁寧な内視鏡の操作と胃の写真9枚をつけて説明をしてくれた誠意と技術を感じる、新橋内視鏡クリニック。
今後もこの病院で胃カメラ検診をしようと決める)
そしてスマホも交換。(まだ操作に慣れずにモタモタ。しかし華麗なテクノロジーの進捗ぶりに感動している。)
書店で知らない作家の文庫本を数冊、買って読んだり。
その本の中の、アメリカ人教授による孔子の仁についての講義が新鮮で、「仁」って、すぐに実行できる!と発見したり。
穏やかで、親切でいるだけで、周囲に影響を及ぼす。それが仁ってこと。
…と思うのはすでに私個人の解釈なんだろうが。
人って何かを変える要素なんだな、何か影響を持っているものなんだな、と勤務先で異動が二年で二度つづいた今、思っていたのだ。
この人があらたにこのグループに加わると、それまでとは何か、変ってしまうものなのだと。
人間って、生きている個体って、ただそこに在るだけで、空気を変える力をもっているのだと。
作為ではなく天然で。それがその人の仁なのかな。

 

 

 

秋のはじめの手相観

先週の日曜日は、四か月ぶりに「心と身体が喜ぶ癒しフェスティバル」に参加して手相観。
今回、お客様はかなり少数だったのだけど、しっかりと手相観をすることができて良かったかも。
五歳の男の子とお母さんを両方手相観できたり。
(男の子は、お母さんの手相観中、退屈でじっとしていられなくて泣き出してしまったりして。
繊細な年頃なんだなー。でも五歳にして、すでにしっかり開運線も結婚線も立ち上がっていた手相だった)
耳の聞こえないお客様に、手相から読み取ったことを、都度都度メモ帳に書いて見せて、いろいろリアクションをもらえたり。
このお客様は、記入したメモ帳の頁の持ち帰りをご希望。メモ帳とペンを常備しておいて良かった、と強く思った。
手相観デビューをするとき、鳩居堂で、うさぎやふくろうのポイント柄に惹かれたメモ帳や、うさぎ柄の千代紙で巻いた紙製トレイを買って、それらを使いつづけている。…またメモ帳は楽しく買いに行こう。
何年かぶりに手相を観てもらったけど、観方がちがって良かった、とお客様に言ってもらえたり。
今の状態を改善するにはどうすればいいのか?と具体的に解決策を求めてくるお客様もいて、いつもそういう方には、九星気学を使う方法を紹介すると喜んでいただけるんだけど、今回は、まるでとりあってもらえなくて、7年後に線が立ち上がっていると伝えても、それでは遅すぎるみたいで…しかし、7年より手前に念入りに線を探しても見つけられなかったから、嘘をつくわけにもいかない。
お客様は、手相で、じぶんを、未来を知りたがる。
未来は予想を超えた状態で来る。
通り過ぎてしまってから、ああ、そういうことだったのか、と気づいたりも。
ほかに、知能線が途中から感情線と一体になる手相のお客様に出会った。
このお客様の話を聞いて、私自身のことに関して、腑に落ちたことがある。
私の手相は知能線と運命線が一体になっているぶぶんがある。それってこういうことでは?と突如思い当ったりして。
手相観の数を重ねていくのは、発見を重ねていくことなのかもしれない。
次回の手相観は、12月1日の予定。

好きになる力

じぶんの好きではないことの勉強をしばらく続けていた。
まだ、そのダメージから抜けていないなあ、と感じる。
好きではないことをやり続けていたら、「好きになる力」をずいぶんと削がれていたことに気づく。
「心から好きで夢中になる」ことが、以前はもっと簡単にできていたのに、難しくなってしまう。
ばかだな、わたし。好きではないことを好きになろうとして。
好きではないことを好きになろうと、好きな角度を探したり、好きになる方法を考えてみたりして。
そんなことではこころはだまされない。
そのために好きなことに使う時間や、新たに好きになろうとすることを、とどめたりして。
おかげで好きになるこころのぶぶんが弱ってしまったみたいだ。
著名なデザイナーが住む家や環境の居心地よさにこだわるのは、大切なじぶんを削がれないためなんだろう。
何かを好きになること、何かに夢中になること、ってすごい力なんだよ!と、以前のじぶんに伝えたい。

曖昧なぶぶん

4月から、勤務先での業務の内容が変わった。
それで、今さらながら、気がついた。
私は、自由に伝えることができないのが、とても苦しい質なんだと。
きちっとしたルールがあって、そのルールを疑ってはいけなくて、ルールの枠からほころばせることができないことが、苦しい。
論理的なのは嫌いじゃないし、自由にルールを作っていいいのならまだ救いがあるんだけれど、法律で決められたことだったりすると、それは無理だ。
紙に書く書類よりデジタル書類が合理的とされるのは、紙は、曖昧なぶぶんをうけとめてしまうけれど、デジタルは曖昧なぶぶんをはじくことができるから。
曖昧なぶぶんは、自由なぶぶんでもある。
曖昧は、希望が生まれるところでも、ある。
自由なぶぶんがあると、そのスペースには希望が育つのだ。
じぶんの言葉で、自由に伝えること。
それができる手相観タイムを持つのは、じぶんの中の曖昧なぶぶんが温められる感じ。

晴れと水

二回にわけてとった夏休み。後半の夏休みは、特に予定を立てていなかった。
休み開始前夜に突然、南に行こう!と思い立って、観音崎京急ホテルを予約。
併設の「PASSO」にある、海を眺められる露天風呂に以前から行ってみたかった。
翌日、観音崎を目指して、めったに使わない京急線に乗り込む。
駅のホームの自動販売機で初めて買った飲料水の名前は「晴れと水」。
まさに「晴れと水」のような旅だった。
旅先に、本を一冊持っていこうと思って、海が見える部屋で読むなら?と考える。
華麗なるギャツビー」だ。
海沿いに建つ自邸の向かい側の岬(デイジーの邸宅がある)に灯る、緑色の光に、さっと手をさしのべたギャツビー。
もっていく本は、ギャツビーでしょ、ここは。
静かな馬堀海岸駅に到着し、送迎のシャトルバスに乗り込んで、道を曲がってまっすぐ行った先に、突如、海がひらけた。
海がひらけると、こころがひらける。
この日はさいわい、晴れていたから、余計に海が明るい。
ホテルに到着し、さっそくPASSOに行き、海を眺めながらの露天風呂と、視界を空でいっぱいにしながらの寝風呂に、癒される。
観音崎は、横浜港に向かう船の「横顔」が見える位置。
各部屋に、双眼鏡が置いてあって、船を観察することができる。
船の立てる波音も機械音からも遠く隔たっていると、無音で海の稜線を進んでいく、大きさもかたちもさまざまな船の横顔に、とても癒される。
思いがけず、貨物船がカラフルでとても可愛い。船上に、レゴをきっちり積み上げているような感じ。
夜になれば、海の風景も地味…と思ったら。
遠くの岬(たぶん横浜港)に、緑色の光が点滅しはじめたのだ。
これは、ギャツビーと同じシチュエーション。
緑色の光に答えているように、向かい側の岬には銀色の光が点滅している。
きゅっと絞った光源がつくる、素敵な夜の景色だった。
ちなみに、観音崎京急ホテルには「豪華客船の観音崎通過時刻表」が置いてあって、
それによると私がこの一泊で豪華客船を見られるチャンスは、翌朝の5:00。
目覚めますように、と祈りながら眠って、ふと目覚めたら時計は5:07。きゃーっ
もう行っちゃったかな? 豪華客船って、ど、どれかな。もしかしてあれ?あの大きくて白いやつ?
と、あせりながら双眼鏡で海を見ていたけれど、確信が持てない。
もしかして豪華客船を見逃したかも・・・と思ったけれど、
どうやらその時間帯は、船のラッシュアワーらしくて、つぎつぎとさまざまな船が並んで、大きな船も小さな船も順番を守って、海の上を一列に並んで進んでいるようすに、なんとも癒されて。
5:07に起きられて良かった、と思う。
朝ごはんの後にもPASSOのお風呂を目指したら、外は雨。
独占状態の露天風呂の水面には、雨粒の描く円がつぎつぎと生まれて、それはそれで風流な感じ。
チェックアウト後も午後3時までPASSOを使うことができたので、一度外に出て、走水神社と横須賀美術館に行くことにする。
外に出たら、嬉しいことに雨が上がっていた。
防衛大学海上練習場を横目に見ながら、走水神社に到着。
倭建命と弟橘媛に縁のある神社。古事記の世界だ~
雨が上がったあとなので、神社全体が、水にしっとりと濡れ、本殿の脇に小さな水神社があって、小さな岩棚の中に河童がまつられていたりして、水の威力たっぷりの雰囲気。
荒れ狂う海を収めるために、海に身を投げたという弟橘媛の碑を立てた人物の名には、当時の日本軍のトップが並び、軍港だった観音崎にとって、ぜひともあやかりたい媛だったんだなあと思う。
その後横須賀美術館を経て、再度PASSOに戻り、晴れと雨が交互にそそぐ、海とお風呂をいただいてから、帰宅。
あたたかい水につつまれたような、一泊旅だった。

夏休み、終了。

令和最初のお客さま

こどもの日は、浅草の心と体が喜ぶ癒しフェスティバルに手相観で参加。
令和最初のお客さまはどんな人かなあ、とわくわく。
これ手相観にちょうどいい!と買った、パソコン仕事用のホルダークッションも、使い初めとなるので、細長いクッションをテーブルに置き、クッションと一緒に客まち。
令和最初のお客さまは…11歳の男の子だった。
なんだかとっても嬉しかった。
こどもの日に、かわゆい男の子が舞い降りたっ。
他にも、赤ちゃんを前に抱いたおとうさん、というお客さまも来てくださって、赤ちゃんをあいだに挟みつつ、手相観。
赤ちゃんのおてても見ていいですか?と頼み、おとうさんは喜んで見せてくれようとするのだけど、赤ちゃんは泣き叫んで抵抗。
すると、どうしたの?と、泣き声が聞こえたのか、どこからともなく赤ちゃんのおかあさんが登場。さすがおかあさん。
泣き叫んでいても、両親とも、「赤ちゃんの手相を見てほしい側」だったので、協力してもらいながら両手を見る。
赤ちゃんだけど、三大線がきちっと存在していて、始点の位置にも特徴が現れていて、びっくり。
その後、手相観から解放された赤ちゃんが、じぶんの手のひらを見つめながら、さっきわたしのおててに何したの~って感じで、じーっと私を見ているので、ちゃんと手に注目されていたってことが、わかっているんだなあ、と感動。
今回のお隣さんは、山伏見習いの占術師。
山伏というとわたしには勧進帳義経・弁慶一行のイメージが思い浮かぶのだが、細身の女の人だった。
山伏になるには、学ぶことがたくさんあって、勉強期間は、ひとまず十年が必要とか。
次回のフェスティバル参加は、9月の予定。間があいてしまうけど。