目的と手段
ときにひと月に1回しか行かない状態があっても、
ピラティスのレッスンに10年以上通いつづけている。
つづいている理由はさまざまあれど、そのひとつは、
「身体のために行う」というまっすぐな目的を持っているものだから、
ということに気がつく。
身体にいい、健康にいい、と宣伝されているものは、
ほんとうは、それをすること自体が目的のはずだけど、
ほかにも目的をつくったほうが、より多くの人々をよせつけられると思うから…だろう。
歌い方を習うのは、歌いたいから、それだけが目的のはずが、
歌うと喉が鍛えられて、こんな病気が防げて・・・なんて、ほかにも目的をつくる。
その目的は、健康だけではなくて、頭がよくなる、とか、モテる、とか、
お金持ちになる、とかまで、風呂敷を広げたりして。
ピラティスは、その目的自体が身体のため、健康のためだから、
「発表会」なるものはない。
でも、「健康になること」も、目的じゃないはずなのだ。
健康も、目的ではなく手段のはずなのだ。
なんのために健康になりたいのだろう?
それでいくと、「頭がよくなること」も「モテること」も「お金持ちになること」も
ぜんぶ、目的ではなくて、手段のはずなのだ。
目的を持たない手段は、手段から手段へ、ずうっとループしつづける。
じぶんのこころに一番近いところに、目的は来ているのに、遠回りをする。
食べたいから!歌いたいから!踊りたいから!描きたいから!書きたいから!
それ自体が、目的。
でも、それをすると、健康/頭/モテ/お金がよくなるの?と議論が始まると、
ループが始まる。
そのループは、商売になったりもする。生きることにもなったりする。